去年の8月、国連本部ビルで、日本在住の中国人撮影家、馮学敏(ひょう・がくびん)の個展「心の故郷――中国文化の旅」が開催された。各国大使や国連の高官たちが会場を訪れ、絵画のように美しく詩のように情趣に溢れた作品の数々を口々に絶賛した。
「映像詩人」と呼ばれる馮学敏が日本にやってきて20年あまりになる。その間写真撮影のために中国との間を60回以上も往復した。そして様々な土地や人々の間に直接入り込んで、レンズを通して心の対話を続け、膨大な作品によって広大な中国の大地に広がる生活のようすや人々の生き生きとした表情を展示してきた。彼の芸術追求のたゆみない歩みは、中国、日本、そして世界各国で高い評価を受けている。
●努力の成果
1999年、日本の写真界のノーベル賞と呼ばれる「太陽賞」が、設立以来36年間で初めて外国人に与えられ、大きな話題を呼んだ。写真界の大御所である荒木経惟は馮学敏のシリーズ写真「雲南」に対して「色彩の感情がある」と絶賛し、ジャーナリストの立花隆は「馮学敏の非凡な目が『雲南』の魅力をこのように引き出し、彼の雲南に対する思いがどんなに深いかを見せてくれる」と述べた。2000年には「蔵族老婦(チベット族の老婦人)」で「世界華人芸術大賽」金賞を獲得した。
馮学敏の活動は国内外で大いに注目を浴びている。中国では中央電視台の番組「東方の子」で紹介された。NHKは二年間彼の創作活動を追って、農耕文化を紹介する大型ドキュメンタリー番組「雲南・天空の棚田を撮る〜写真家・馮学敏の旅」を制作した。スイスのバーゼル国際アートフェアには「雲南・農耕文化の故郷」から50枚近くの作品が出品された。東京都写真美術館では240枚の作品による大きな個展を開催し、絵画や詩のようにすばらしいその作品の魅力がたくさんの日本人を感動させた。
カメラメーカーのニコンのサイトでは、馮学敏のためのページを開設しており、日本語と英語で世界の50万人の会員に対して作品を紹介している。光学レンズメーカーのシグマでは彼を全世界向けの広告に起用しており、これはシグマの広告では初めての試みである。
●生活から与えられたもの
馮学敏は17歳の時、雲南の西双版納(シーサンパンナ)に下放されて十年間の労働生活を送った。人生で最も美しい青春の日々をこの神秘的な土地に捧げたのだ。1985年から1989年にかけて、馮学敏は研究のため日本を二回訪れ、写真評論家の澤本徳美教授に師事した。勉学期間に、彼は世界の様々な撮影の方法に触れ、現代の撮影技巧に習熟していき、他の人には真似のできない勤勉さで15万枚以上の写真を撮り続けた。大学での研究が終了した時、馮学敏は何度も考えた末、日本での活動を続ける決心をした。そして旭通信社(現在はアサツーディ・ケイ)に入社し、数年のうちに一介のカメラマンから写真部の部長になり、現在も同社に勤務している。
馮学敏は過去を振り返ってしみじみと、苦労は人生の財産だと言う。雲南で辛い生活を経験したので、その後どんな困難があっても恐れなかったそうだ。大空と高山以外では、そばにあるのは棚田だけだった。だから毎日心の中で思っていた。一分一秒を惜しんで社会のために貢献する人間になろうと。
●心で撮影する
馮学敏が撮影する自然の景色は、もの珍しいものを探したり人々の風俗を収集したりする散漫なものではなく、思想を持った目で歴史や文化を持つ民族や風物にレンズを合わせ、それを「中国文化シリーズ」に組み込もうという雄大な構想なのである。初めてこれらの写真を見る時、鑑賞者の心は写真の外見と同じように平静かつ穏やかで、激しく揺さぶられるということはない。しかし細かく味わっていくと、その悠遠で重厚な歴史観、優しく温かいヒューマニズム、何世代にもわたって途切れることのない故郷への深い思いが伝わってきて、そこから読み取れる文化の積み重ねと歴史の移り変わりに対して感動が湧き上がってくる。
馮学敏は芸術の魂は情感だと深く信じていて、カメラのシャッターを押す時に、人間の情感を誠実に表現することを自身の創作の原則にしている。「これらの作品が成熟していても幼稚であっても、それはすべて私の魂の真の表れであり、感情の真の流出なのです。」彼は現実とロマン、写実と詩情を結びつけて、油絵や水彩画のような美しい画面によって、風格と形式と技巧の完璧な統一を実現している。
国連副事務総長の陳健氏は、馮学敏の作品が天性の才能と得がたい経験によって人生の意味、文化の内包、および歴史の深さを表現していると称えた。彼の作品は異郷である隣国で心に感じ取ったものであり、それは彼を育んだ文化への思慕から生まれたものである。彼の作品が表現しているものは、夢のような現実主義であり、正にある詩人が言ったように、「心にあるものが形となって表現された」ものなのである。
●粘り強い追求
馮学敏は言う。「私は自分が非常に恵まれていると思います。一般の中国人ができない貢献や、日本の撮影家ができないことが、私にはできるからです。だから私は日中文化の架け橋にならなければならないと思っています。」
「紹興酒郷」の撮影のため、彼は紹興を何十回も訪れ、農家に住んで村人たちと一緒に手仕事や酒の醸造を体験して、時を経た芳醇な酒の香りを追求し、酒文化の包含しているものを感じ取った。
「中国瓷郷」の撮影のときは、日本の陶磁製造を見学するだけで丸5年を費やした。景徳鎮では陶工たちと共に高温の作業場で二日を過ごし、陶工と飲食を共にした。
「プーアル茶郷」と「雲南稲郷」の撮影では、彼を育んだ土地に再び足を踏み入れた。そして前後十数回の雲南探訪で、郷土を代表するプーアル茶文化、雲南の茶馬古道、多民族の融合、多宗教の共存、人と自然の調和などの景観を人々の前に展開してみせた。
現在、馮学敏は「油菜花郷」(貴州)と「西蔵薬郷」(チベット)の撮影を行なっている。チベットを訪れるたびに高山病になったり、怪我や病気で苦労を重ねたりし、三回目の時は交通事故に遭って頭部を10針縫う大怪我で三日三晩意識不明になった。写真芸術は美しく華麗だが、その追求の過程は周りの者には想像もつかない体験や苦労に満ちているのだ。だが馮学敏はそれを人生の修練、一生の財産と考えて、まったく後悔していない。
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